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水俣病の歴史 公害問題のすべてが凝縮されている!!!

写真特集1/26] | 毎日新聞

1973年3月

 

水俣病の60年の歴史を学びなお残さ れている課題を理解すること:被害者の M 自己紹介

2004年10月

 

 

水俣病関西訴訟最高裁判決(2004年)から15年たった今月、15周年の集い「改めて患者さんのお話を聴く~水俣と今」が大阪市内で開かれた。水俣病被害者を支援する「チッソ水俣病『知ろっと』の会」(大阪市)が主催した。司法と行政認定の二重基準や十分な補償の不履行など、今なお翻弄(ほんろう)される被害者の声に、約80人が耳を傾けた。

毎日新聞 2019年10月29日

 

 

 

水俣病とは


アセトアルデヒド生産工程で生成されたメチル水銀化合物が不知火海に排出され、これが魚介類に高濃度に蓄積され、汚染された魚介類を人が長期間にわたり摂食したことで発生した公害病。

出典:熊本学園大学

地域では、手足のしびれやふるえ、視野狭窄、難聴、運動失調などの症状の訴えが相次ぐようになり、ました。中には、寝たきりの状態になったり意識を失ったりするなどの激しい症状の後、亡くなる人もいました。

母親が妊娠中にメチル水銀のばく露を受けたことにより起こった胎児性水俣病等では、
成人のものと異なった病像を示す場合があります。

水俣病は、環境汚染により引き起こされた健康被害であることはもとより、汚染された地域の自然や地域社会全体にも、大きな問題をもたらすことになりました。

(環境省)

 

「猫てんかんで全滅」。熊本県水俣市南部の茂道(もどう)地区で起きたネコの異変を地元紙が伝えたのは、水俣病の公式確認より2年前の1954(昭和29)年だった。ネコがほとんど死んでしまい、ネズミの急増に困った漁業関係者が市の衛生課にネズミ駆除を申し込んだという記事だった。

水俣病研究の第一人者だった故・原田正純医師は著書「水俣病」(岩波新書)で、50(昭和25)年ごろから魚が海面に浮いて手で拾えるようになり、カラスが空から落ちるという異変の様子を伝えている。それは次第にネコやブタ、イタチなどに広がった。

 地引き網やボラかご、タコつぼに一本釣り……。多様な漁法を駆使し、不知火海の幸を得てきた漁師たちの暮らしのそばにいたのが、漁網をかじるネズミを追うネコだった。漁師たちと同じように魚を食べてきたネコの足はもつれ、狂ったように走り、海へ飛び込んで死ぬようになり、「猫踊り病」と言われた。

 同書は熊本大医学部の水俣病研究班の調査データとして、飼いネコ121匹のうち、半数以上の74匹の発病が確認されたことも示し、「きわめて異常な事態がすでに水俣地区ではすすんでいた。いや実は、このころすでに人間も、それと気づかれずに発病していた」としている。さらに異常は水俣湾やその周辺だけでなく、不知火海一帯へ広がっていった。

 人間に警告しただけではなかった。ネコはチッソ水俣工場付属病院長による工場廃水を与える実験でも犠牲になったが、発症した結果は公表されず、排水は止まらなかった。

朝日新聞デジタル

 

 

画像:手の硬直

 

 

・手足がしびれたりふるえたりする
・目の見える範囲が狭まる
・耳が聞こえにくくなる
・言葉がはっきりしゃべれなくなる
・つまずいたりよろめいたりする
・普通には歩けなくなる
・けいれんを起こす
・寝たきりになる

特にこれらの症状が激しかった人は意識を失い、手足や身体を激しく動かし、昼夜の別なく叫び声をあげ、壁をかきむしったりしながら、発病から1ヶ月ほどで亡くなっていった。出生の時から身体や精神の発達が遅れる者や早期に死亡する幼児もいた。

 

 

写真:毎日新聞

 

・原因不明の体調不良に苦しむ家族に少しでも栄養をつけさせようと新鮮な魚を食べさせたりしていた。
・水俣病が魚介類を摂取することで発病するとわかってからも、貧しくて他に食べるものを買うことができないために魚を食べつづけていた家庭もあった。

・慎ましい生活を送っていた水俣の漁民達の生活は、水俣病の発生によってたちまち困窮し、貧しさが患者と家族を襲った。

・家族に水俣病患者が出た人たちは、うつるのではないかという恐怖から皆に怖がられ、想像を絶する差別にさらされていった。

・道端では石を投げられ、村の寄り合いには来るなといわれ、買い物に行っても迷惑がられ、共同井戸さえも使えなくなって、炊事さえままならない状態に陥った。

・亡くなった子どもを家に帰そうとすると、伝染病だからとタクシーにも断られ、母親は冷たくなった我が子を背負って、泣きながら歩いて帰った。

・やがて、差別していた人たちも、水俣病に苦しむようになっていった。

 

妙子さんは1939年、熊本・水俣の丸島で生まれた。物心ついた頃から、網元の叔父の船に乗って魚を獲りに行った。

体に異変が現れたのは小学5年生のとき。よだれが出たり、足の指がしびれて感覚がなくなったりした。ご飯の味がわからず、温度も感じられないため熱いお茶を飲んでやけどすることもあった。

「そげんしたこつはいうな。奇病っていわれたらもらい手がなくなるで」

母は、妙子さんの訴えを隠そうとした。

「私も魚が売れんごとなったらだめだとわかっていたから、体の具合が悪いのも隠していたんです」

妙子さんが結婚した夫は「劇症型水俣病」の症状があり、手のしびれやけいれんに苦しんでいた。二人の間に生まれた長女は、「目が見えず、耳も聞こえなかった」。

長女は1歳の誕生日を迎える前に、「オギャーン」と声を張り上げた後、息を引き取った。入院していた夫も、病状が重篤化し、1962年に亡くなった。

妙子さんは生後4カ月の長男昭一さんを連れて、病院の5階から飛び降りた。テントに引っかかり、幸い一命を取り留めた。

水俣病の症状が重く、体の弱かった昭一さんは学校でいじめられていた。

「『水俣病やろお前』と言われて、毛虫を背中に入れられたりして。毎日泣いて帰ってきました」

ハフポスト 2021年09月25日

 

 

 

水俣病年表

和暦 西暦 出来事
昭和06 1931 11 16 日窒の橋本彦七・井手繁、アセトアルデヒドの製造方法の特許を取得
昭和07 1932 5 7 日窒・水俣工場、第1期アセトアルデヒド・合成酢酸設備の稼働を開始。廃水は百間港(水俣湾)へ無処理放流
昭和25 1950     橋本彦七 水俣市初代市長に当選。1950~1969年まで通算16年間市長を務める。
昭和28 1953 12 15 溝口トヨ子(水俣病と公式確認されている第1号患者、水俣市出月、当時5歳11ヶ月)が発病(患者番号1、S31.3.15死亡)
昭和32 1957 1 17 水俣市漁協、新日窒・水俣工場に、工場排水の中止と浄化装置設置を申し入れ
昭和32 1957 2 26 熊大研究班、水俣湾内の漁獲禁止が必要と報告
昭和32 1957 9 11 厚生省、熊本県の照会に対し「水俣湾内特定地域の魚介類がすべて有毒化している明らかな根拠は認められない」として食品衛生法は適用できないと回答
昭和33 1958 1 武田泰淳 、 『鶴のドン・キホーテ』を「新潮」に発表。1957年当時、すでにチッソが水俣病の原因企業であることが周知の事実と描写
昭和34 1959 7 22 熊大研究班、有機水銀説を公式発表
昭和34 1959 10 24 新日窒、「水俣病原因物質としての『有機水銀説』に対する見解」を発表し、有機水銀説に反論
昭和40 1965 6 12 新潟大医学部、新潟県衛生部、阿賀野川流域に有機水銀中毒発生と公式発表
昭和43 1968 5 18 チッソ水俣工場、アセチレン法アセトアルデヒド製造設備を停止
昭和43 1968 9 26 政府、水俣病について正式見解を発表(公害認定)。熊本は新日窒水俣工場の廃水に含まれるメチル水銀が原因と断定、新潟は昭電鹿瀬工場の排水が基盤とする「技術的見解」を発表
平成02 1990 4 11 IPCS(国際化学物質安全性計画)、メチル水銀の新クライテリアをまとめて各国に通知、「妊婦の場合、現行の50ppmより低い10~20ppmでも胎児に影響がある」と警告
平成09 1997 10 15 チッソによる水俣湾内の魚介類の買い上げ事業終了。水俣市漁協、自主規制を解除。漁業再開

 

 

環境白書

 

 

水俣病被害が拡大した理由

① 企業・地方自治体・中央省庁・医学界がそろって加害企業チッソを擁護

② 予防的措置をとらない

③ 被害者を救済せず差別し弾圧する

➢ 対岸の不知火 新潟県阿賀野川(第2水俣病)にまで被害拡大

 

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殖産興業という国策の成れの果て

明治初期において,先進資本主義諸国の外圧に対抗するため,近代産業技術を移植して資本主義的生産方法を保護育成しようとした政策。初期には鉄道,電信,鉱山,造船などの官営事業の創設,紡績,製糸などの模範工場の建設,さらには牧畜,農林業などの官営諸施設の創設などを中心に行われたが,1875年以降は,私企業への各種補助金,勧業資本金の交付などに重点を移していき,近代産業の形成を促進した。これら官営事業は,その後 80年の工場払下概則および 85年の工部省の廃止によって政商 (浅野,岩崎,三井,古河など) に廉価で払下げられ,財閥形成の原因ともなった。

ブリタニカ国際大百科事典

 

 

 

医学会による情報攪乱工作

 

画像:東京大学

 

田宮猛雄を委員長とする通称「田宮委員会」

田宮委員会は、医学界で主導的立場にあった人達が原因究明を始めたということだけで、社会的に大きな影響力を持った。
その中で、有機水銀説に対する異説として清浦教授や戸木田教授らの有毒アミン説貝の腐った汁に含まれている『アミン類』による中毒症状ではないかという説)が発表された。
原因については様々な説があり未だ確定していないという彼らの主張がそのままマスコミによって報道され、有機水銀説を相対化させ、原因は未解明という印象を与えることになった。
この点で、日化協の田宮委員会が水俣病の原因究明を後退させた影響は大きく、新潟における第二水俣病の発生を許す一因にもなった。

環境省 国立水俣病総合研究センター

 

 

医学は水俣病で何をしたか(抜粋)
(ごんずい53号) 宇井純


集中砲火を浴びた熊大研究班
原因が工場排水中の水銀らしいと見当がついた1959年夏以降は、熊本大学医学部の研究班は企業や通産省、御用学者の集中砲火を浴びることになる。

(略)熊本大学医学部研究班が、東大を中心に水俣病をもみ消すために作られた田宮委員会に屈服し、チッソから金をもらって代表団をローマの国際神経学会に送ったのは1961年であり、1964年にそれまでの研究をまとめたいわゆる赤本(熊本大学医学部水俣病研究班「水俣病-有機水銀中毒に関する研究-」・編集部注)が用意された段階では、水俣病を否定する医学界本流と熊大医学部の手打ち式は完了していたと見てよい。

この赤本にはチッソから費用が出ていることが明記されている。

(略)この間医学界主流にあった東京大学医学部を中心として作られた田宮委員会は、水俣病つぶしの有力な手段であり、日本化学工業協会とチッソから研究費をもらっていたが、表に出ないもくろみは、米国の公衆衛生院(NIH)から熊大へ支給された三万ドルの研究費をねらったらしいことが、複数の関係者の証言で裏づけられる。

もみ消しだけで十分犯罪的である上に、横取りまで考えていたとなるとおそろしい話である。(略)日本医学会会頭、東大名誉教授田宮猛雄を委員長とし、公衆衛生学教授勝沼晴雄を幹事長とした田宮委員会と対立するということは、いわば日本医学界全体を敵とすることを意味する。

こうして孤立した熊大医学部としては、水俣病の病像をすでに文献記載があって誰も文句のつけられないハンター・ラッセル症候群に限定しておくことが有利であった。新しい症状などをつけ加えたら、ますます学会から袋だたきにあうであろう。

 

 

ハンター・ラッセル症候群
おびただしい数の真正の患者が補償されることなく切り棄てられてきた 
入口紀男

水俣湾周辺で見つかったメチル水銀中毒の生前の症状として、
・運動失調(うんどうしっちょう)
・視野狭窄(しやきょうさく)
・構音障害(こうおんしょうがい)
の三つは、1959年に熊本大学の研究者らによって「三主徴」(さんしゅちょう)として「ハンター・ラッセル症候群(しょうこうぐん)」とよばれるようになりました。

研究者らのいう「ハンター・ラッセル症候群」とは、米国の A. ペンチュウという病理学者が 1958年に著した『中毒』(Intoxikationen)という権威ある本の中にそのような記述があるというものでした。

それは、以後水俣市と不知火海(しらぬいかい)沿岸などで暮らしている地域住民に対して、メチル水銀中毒の有無を判定するための根拠として利用されました。

その結果、「ハンター・ラッセル症候群」を呈していないという理由で無数の患者が補償されることなく累々と切り棄てられてきました。

しかし、そもそも、A. ペンチュウ博士の『中毒』の中にそのような生前の症状について「ハンター・ラッセル症候群」とよぶような記述はありません。

筆者(入口紀男)は、当時の研究者らが生前の症状を「ハンター・ラッセル症候群」とよんだことが、残念ながら科学史上の根源的な誤りであることをお伝えしなければなりません。

なぜなら、ペンチュウ博士とラッセル教授が定義した「ハンター・ラッセル症候群」とは、脳細胞が破壊されていて顕微鏡で見えるなどの「死後」の解剖学(かいぼうがく)上の症状のことであるからです。

それは、「生前」の運動失調、視野狭窄、構音障害のような臨床学上の症状のことではないからです。

 

 

産業界によるもみけし行動

旧海軍の爆弾説

昭和34年(1959年)日本化学工業協会大島竹治理事が水俣を訪れ、チッソが反論を発表したのと同じ9月28日に、原因は敗戦時に湾内に捨てられた旧海軍の爆薬だと発表した。この爆薬については、既に昭和32(1957)年2月に熊本大学医学部研究班が当時の関係者にそうした事実は無いことを確認し、チッソも昭和34(1959)年9月初めに事情を聞きに行っていた。それにもかかわらず、チッソは、爆薬説を大々的に宣伝して、実際に海底調査作業まで行ったが何も出てこなかった。

環境省 国立水俣病総合研究センター

 

 

チッソ水俣工場の工場長が16年間水俣市の市長だった

橋本 彦七 はしもと ひこしち
1897~1972年

水俣市初代市長に当選。1950~1970年まで通算16年間市長を務める

・水銀触媒を用いたアセトアルデヒドと酢酸の合成法を発明
・チッソ水俣工場工場長 昭和6年(1938年)~昭和21年(1946年)
・水俣市長在任期間    1950~1958年、1962年~1970年
称号    勲五等双光旭日章

 

 

わずかな「見舞金」で黙らせる
昭和34(1959)年、患者家庭互助会は熊本県知事に陳情して不知火海漁業紛争調停委員会の調停を要望し、12月12日、県知事、水俣市長ら同委員会が調停に乗り出した。

チッソは、熊本県知事に対して、原因が確定していないのだから補償金ではなく見舞金であること、原因が会社の責任でないことが確定したときにはその時点で見舞金を打ち切ること、また原因が会社の責任であることがわかっても追加払いはしないことを調停の条件とした。

熊本県知事は、近々排水処理装置が完成すれば患者の発生は止まるものと信じ、この際、労災保険等にならった補償額を引き出すことが得策と考えて、この条件をのむこととした。

患者らはこの調停案による金額は低すぎるとして相当抵抗したが、チッソは、患者らの要求に対しては、原因が明らかでないとして応じなかった。

チッソは、12月24日に排水の凝集沈澱処理装置(サイクレーター)の完工式を行い、翌25日に県漁連と3,500万円の補償金及び6,500万円の融資を内容とする調停案に調印した。残された患者家庭互助会も、生活の逼迫もあり、12月30日に成年患者に年金10万円、未成年患者に3万円などを内容としたチッソとの見舞金契約に調印した。

この際、見舞金の対象者は「水俣病患者診査協議会」が認定することとなっており、見舞金契約が締結される直前の12月25日に厚生省が臨時に診査協議会を設けた。

また、見舞金契約の第5条には、水俣病の原因が将来「工場排水に起因することが決定した場合においても、新たな補償金の要求は一切行わない」という条項が入った。

環境省 国立水俣病総合研究センター

 

 

 

 

 

凝集沈澱処理装置(サイクレーター)設置の社会的影響

漁民は排水の完全浄化設備の設置を強力に要求した。また、通産省も、同年10月、チッソに一刻も早く排水処理施設を完備するように指導した。対応策としてチッソは約1億円を投じて排水処理専門会社に凝集沈澱処理装置(商品名「サイクレーター」)を発注した。サイクレーターは、着工からわずか3ヶ月後の昭和34(1959)年12月19日に竣工した。

見舞金契約が調印される直前の同年12月24日に盛大に行われた完工式では、福岡通産局長や熊本県知事を招き、吉岡喜一チッソ社長が「処理水」と称する水を飲んでみせるというパフォーマンスまで演じ、サイクレーターの完成で排水処理は完璧なものになったと公言した。
ところが、昭和35(1960)年初めに湯堂で新たな水俣病患者の発生が報告され、一部の新聞にサイクレーターの効果に疑問が出された。すると、チッソは、入鹿山且朗教授に、処理前の排水とサイクレーターで処理後の排水と書き分けられた試料を持ってきて、水銀測定を依頼した。入鹿山教授は試料の確認をせずそれぞれの水銀量が20ppm、0ppmであったと報告し、その後はサイクレーターの除去効果を信じて、後の論文でもサイクレーターの水銀除去効果を繰り返し述べた。

昭和60(1985)年の関西訴訟(一審)の証人尋問で明らかになったことであるが、施工した水処理会社の設計担当者井出哲夫氏によると、サイクレーターの一番の機能は濁った排水を見た目に綺麗にすることであって、水銀の除去機能は要求されていなかったのである。
そもそもチッソが要求した設計仕様は、リン酸、硫酸、重油ガス化、カーバイト密閉炉4設備の排水を処理し、濁度50度以下、色度50度以下、pH 8〜9を保証するものであり、アセトアルデヒドや塩化ビニールなど水銀を使う工程の排水を処理することにはなっていなかった。結果的には、けん濁物質に吸着された一部の水銀は除去されたが、水に溶けたメチル水銀化合物などは除去する設計にはなっていなかった。

完工式でチッソ社長が「処理水」を飲んで見せたことを聞いた設計技術者は、あたかも飲み水を作るかのような錯覚を与えると思い苦々しく感じたという。

実際、チッソは、試運転中に水銀の溶けた排水をサイクレーターに流したところ、除去効果の無いことがわかったので、アセトアルデヒド製造工程の排水は、八幡残滓プールに送り、サイクレーターには流さなかった。

しかし、サイクレーターの完成によって排水は安全になったというチッソの宣伝の影響は大きく、市民はもちろん、研究者もマスコミもこれで水俣病の発生は終わったと思いこんでしまった。

環境省 国立水俣病総合研究センター

 

 

八幡残滓(はちまんざんし)プール経由の排水路変更による汚染地域拡大と新たな水俣病患者の発生

 

昭和34(1959)年3月になると、水俣川河口付近の漁民から新たな患者の発生が報告され、その後も河口付近から患者発生の報告が相次いだ。
また、北側の津奈木町や湯浦町、さらには不知火海を挟んだ対岸の天草でも、多数のネコの発症が報告されるようになり、人体実験ともいえる排水路変更の影響は新たな患者発症と汚染地域の拡大という重大な結果を招くことになった。

排水路変更とそれによって生じた患者・被害の拡大は、原因物質が何であれ、アセトアルデヒド製造工程の排水が熊本水俣病の原因であることを強く示唆するものであった。

環境省 国立水俣病総合研究センター

 



 

 

公害がなくならない理由

『技術と産業公害』宇井純 1985年

公害の歴史において企業がまず公害の存在を否、無視し、次いで無視できなくなると被害者運動の買収、抱きこみ、切りくずし、御用学者の動員など反社会的行動に出るのはごく普通のことである。

 

① 公害の発生源である企業の態度

利益と成長のためには何をしてもよいという態度が目立ち、その社会的責任を真剣に考えることは滅多にない。
社会的責任については、富と雇用を造出することばかりが重視される
・利潤をあげることに伴う社会的損失については考察されない
・組織のために個人や社会の倫理を無視することが容認される
・これに国家目的である殖産興業政策、富国強兵政策が加わったとき、企業の行動に対する倫理的制限はなくなってしまう
・低賃金、保護貿易政策とならんで、公害の無視は日本産業の高度成長の有力な要因であった。
・第2次大戦前から1960年代まで,目本の基幹産業:製鉄、セメント、パルプ工業に見られるように、公害防止に当然割くべき投資を省略して、利潤の大半を生産設備に投資し、資本の原始的蓄積をなしとげた。
・これに日本経済の特殊条件である二重構造(近代的大企業と伝統技術に立脚した中小零細企業が併立している状況)、下請企業の階層性が加わり、公害、労災等を防止する社会的費用は中小企業におしつけられることにもなった。
・公害の無視によって大企業の資本蓄積は促進されていった。

 

② 企業と結びついた国家・地方自治体の態度

・公害の被害者運動は、治安問題として弾圧される。
・基本的構造は戦後も変わらず、殖産興業政策はかえって強く推進された。公害規制法に企業保護が立法目的として明記された国が他にあるだろうか。
公害紛争において行政が企業を代弁することは日常的であり、公害防止対策として作られた企業と行政の公害防止協定(多くは新設備や新工場の建設の事前につくられる)すら、被害者運動に対する企業と行政の共同防壁として使われている。
・戦後日本の政治と企業の結びつきは、国家独占資本体制と呼ぶべき段階に到達した。
保守党の長期政権のもとで、高級官僚が退職後大企業の経営幹部となり、あるいは保守党政治家となることが常識化している。
・これは軍事政権下におけるエリート軍人の挙動と似ているが、日本以外の工業国ではまれな現象である。
・こうした人的つながりは産業のあらゆる分野にひろがっており、特に公共投資を主な市場とする建設業では、これなくしては事実上営業は不可能である。
・1980年代に入って表面化した建設業の談合問題(入札前に応札企業相互のあいだで妥協が成立し、一番札の企業を順ぐりに決める習慣)はその氷山の一角であり、有力な公害防止産業とされていた下水道事業は、その談合の結果の事業とも言える。公共投資の配分は、保守長期政権を支える有力な武器であり、企業、官僚、政治家の三位一体化した構造汚職体制が、日本の中央・地方政治を支配している。

 

③ 積極的な科学技術の導入政策

・足尾銅山以来の公害の歴史に見られるように、公害防止技術を切りはなして、生産に役立つ技術のみを導入した。日本の技術導入の特徴である。
・鉄鋼、化学、パルプ等の技術水準の高い基幹素材産業はすべてその例であり、例外としての石油精製業は、技術水準が低い故に、その目的を知らずに公害対策である油水分離装置をも購入して建設、運転したとも言われている。
・同様な選択的導入の最後の典型は、1948(昭和23)年の米国教育視察団が、日本の工学教育に欠けていた分野として指摘した化学工学と衛生工学に見られる。化学工業の生産に役立つ前者はすぐに国立大学工学部に普及したが、生産に役立たぬ後者の教室は今日でもわずかに2大学にしかない。
・自然科学、社会科学の分野における導入科学の問題点は、基本的な姿勢と、対象認識の次元にあらわれる。欧米から導入された科学は当初から本質的に権力の侍女として存在し、科学者には特権的地位が与えられた。そこでは眼前の事実に学び,そこから出発しようとする姿勢がとぼしく、導入した科学の尺度に、いかに現実を裁断してあてはめるかが普通の姿勢であった。
・科学は日本独自の発展をとげがたく、導入理論の独占代理店として大学が機能する傾向が強かった。外国の学者の理論の祖述が日本知識人の思想的営為の大部分であり、その所産は民衆の現実的日常生活との関連を少なからず欠いている。
・科学技術が実用化される時は、支配的権力による民衆管理の道具として使われることが多かった。
・公害についてもいまだに、社会科学、自然科学、医学の各分野において、既存の理論体系を部分的にあてはめるというような断片的な認識しかなされていない。そのために不可避的に問題の過小評価が生じている

 

 

④ 個人の尊厳と人権思想の確立がおくれている

・国民的な社会思想の問題として、市民革命を経ることなく近代化したために、今日まで未だに個人の尊厳と人権思想の確立がおくれている
・歴史的には、17世紀以降進行した水田の過剰開発が、水田かんがい用水の相対的不足をもたらし、水不足の強迫観念のもとに日本の農村共同体の閉鎖性、排他性が強固に形成されたのだが、その共同体意識は徳川時代だけでなく明治以降の近代化過程でも、政治的に抑圧統治手段として巧妙に利用された。
・明治政府は共同体意識を帝国主義的競争の強迫観念と結びつけ、国家神道、天皇制をその結合剤として、国家規模の疑似共同体を作りあげたとも言える。その極致が、民族の統一と団結をイデオロギーとした大東亜共栄圏、八紘一宇(はっこういちう:「天下を一つの家のようにすること」「全世界を一つの家にすること」を意味する)の理論である。
・一方与えられた条件の枠内で個々の農民が生存のために工夫をこらして協力する日本的合理主義は、戦前・戦後を通じて企業組織の中に温存され、積極的に増進された。
・戦後の企業別労働組合もまたその増進の一手段として利用されている。
日本人の国際的特徴として指摘される集団主義、組織への忠誠心、原理的問題への判断停止、権威への盲従、差別の普遍性と序列の固定化などはこうして作られ、学校教育により促進されたものである。
・欧米人が日本人の性格の特徴としている儒教は,この生産条件にもとづいた下部構造の上にのせられたイデオロギーであり、本質的なものではない。
・帝国主義的膨張政策は必然的に日本周辺における植民地進出と侵略戦争をもたらしたが、そこでの人命の無視は、公害被害者の人権無視と共通するものであった。
・近代工業生産の中での労働者の権利無視もまた、これに対応した現象である。
・第2次大戦後,労働者の権利は上からの改革により制度的に保証され、積極的に増進されたが、それは組織労働者に限られ、未組織の国民大衆にはなかなか及ばず、労働組合といえば今日も圧力団体としての側面だけが意識されている傾きがある。
・従って大企業においては企業共同体観念を補完し、補強する組織体として労働組合が巧妙に利用される結果にもなる。
・1950~60年代において、農漁民を中心とした公害被害者の人権無視労働組合の内部における労災、職業病の軽視はともに同じ社会的基盤から生じた事象であり、したがって、それは労働組合運動に基盤をおいた目本の左翼政党に共通した弱点でもあった。
・政治的自由の存在にもかかわらず基本的人権が軽視されるという体験は、上からの制度的改革が人権思想として定着するためには長い時間と、被抑圧者の根強い運動が必要であることを示している。

日本社会の歴史的特質を更に詳しく論ずることは、本稿の目的ではない.ここでは公害激化の基本的な要因として上記の四つをあげておくが、立場によってはそこに論議の余地があろう。

 

 

 

水俣病の損害額 年間126億円

 

水俣病の損害額と対策費用
有害物質による環境汚染は、健康被害をはじめ、生活環境の破壊など重大な被害をもたらします。日本は、水俣病の事例から、経済性を優先し環境への配慮が欠けた活動が、健康被害をはじめとする種々の深刻な被害を与え、その後の被害の回復も容易でないことを教訓として得ましたが、経済的な観点から見ても、これらの被害への対策には多額の費用及び長期間を有し、未然に公害の発生防止対策を行った場合の費用と比較して、決して経済的な選択ではなかったことは明らかです。
リオサミット(環境と開発に関する国際連合会議)の直前である平成3(1991)年に行われた水俣湾周辺地域の水俣病の損害額と汚染防止対策費用を比較した研究結果を、以下に示します。仮に今日、新しく計算を行えば、被害額はもっと大きくなるでしょう
環境省

 

 

 

チッソへの貸付金額3077億円

 

補償金捻出に苦しむチッソに、税金から3077億円貸付

法律に基づく認定申請者の増加により、認定申請を棄却される方も多数に上りましたが、認定患者も増加し、チッソの経営努力だけでは補償協定による補償の支払いが困難になってきました。そこで、キャッシュフローが滞り、患者への補償金支払いに支障が生じないようにするため、昭和 53(1978)年から、熊本県が県債を発行して調達した資金を、患者補償の資金としてチッソに貸し付けるという県債方式によるチッソ支援が行われてきました。同方式による県債の累計発行額は約 2,260億円となっています。
このチッソに対する支援措置については、平成 12(2000)年2月の閣議了解「平成 12(2000)年度以降におけるチッソ株式会社に対する支援措置について」(以下、「平成 12(2000)年閣議了解」という。)により県債方式が廃止され、チッソが経常利益の中からまず患者補償金を支払い、その後可能な範囲内で県への貸付金返済を行いうるよう、国が一般会計からの補助金及び地方財政措置 * により手当てするという方式に抜本的に改められました。同方式により手当てされた額の累計は、平成 24(2012)年度末までで、一般会計からの補助金約 654 億円、地方財政措置約 163 億円となっています。
(環境省)

 

 

水俣湾埋め立て費用 480億円

 

チッソの水俣工場については昭和 43(1968)年5月にアセトアルデヒドの生産が停止されていました。その結果、漁獲規制の取組と相俟って、水俣湾周辺地域においては遅くとも昭和 44(1969)年以降、水俣病が発生する可能性のあるレベルのメチル水銀のばく露が存在する状況ではなくなっていたと考えられます。

しかし、メチル水銀化合物の排出が停止した後も、関係水域の底質には水銀が残存し、水質や魚介類の汚染原因になりうることから、汚染された底質を除去する必要がありました。

このため、熊本県では、昭和 52(1977)年から平成2(1990)年にかけて、事業者による公害を防止するために国や地方公共団体が実施する事業について、その費用の
事業者負担に関するルールを定めた「公害防止事業費事業者負担法」(昭和 45(1970)年法律第 133 号)に基づき、チッソ、国及び熊本県の負担により、暫定除去基準値(水銀 25ppm)以上の水銀を含有する水俣湾の底質約 150 万立方メートルの浚渫(しゅんせつ)、埋立(封じ込め)及び58ha の埋立地の造成が行われました。

この事業の費用については、チッソが約 300 億円、国及び熊本県がそれぞれ約 90 億円を負担しました。また、丸島漁港や丸島・百間(ひゃっけん)水路についても浚渫等が行われました。
(環境省)

 

 

水俣出身といえなくなった

原因企業が地域経済を支えるチッソであり、加害者と被害者が同じ地域に存在する中で、地域全体としても、水俣病問題に正面から向き合いにくい状況でした。そのため、行政、患者、市民の心はバラバラになり、地域社会全体が病み、苦しみました。また、全国的にも「敬遠される地域」としてのイメージが形成されたことにより、水俣市民が水俣出身と自信をもって言えない、修学旅行にいった高校生が差別扱いをされた、水俣の表示がある産品が売れないといった状況があり、いわゆる風評被害も生じました。
(環境省)

 

 

■水俣と福島に共通する10の手口■
 
 1、誰も責任を取らない/縦割り組織を利用する

 2、被害者や世論を混乱させ、「賛否両論」に持ち込む

 3、被害者同士を対立させる

 4、データを取らない/証拠を残さない

 5、ひたすら時間稼ぎをする

 6、被害を過小評価するような調査をする

 7、被害者を疲弊させ、あきらめさせる

 8、認定制度を作り、被害者数を絞り込む

 9、海外に情報を発信しない

10、御用学者を呼び、国際会議を開く 

 

 

 

終わらない水銀被害

水銀は様々な排出源から環境に排出され、現在もなお地球規模での環境汚染や健康被害が懸念されています。

 

環境省 水俣病情報センター 人体におけるメチル水銀と健康影響

 

 

ジャネール・モネイ、水俣病にかかっていたことを告白
2020.2.6

 

米時間2020年2月9日に行なわれる第92回アカデミー賞授賞式でパフォーマンスを披露することが発表されたジャネール・モネイが、米The Cutのインタビューで水俣病(水銀中毒症)にかかったことを激白した。

植物食品と魚介類のみを食べるペスカタリアン・ダイエットをはじめてから、病を発症したというジャネール。

ジャネールは、どのようにして水俣病にかかってしまったのか詳しく明かさなかったものの、米疾病対策予防センターによると、数週間から数ヵ月にわたってメチル水銀を大量に摂り続けることで神経系にダメージを与えることがあると説明しており、メチル水銀は魚介類とくに魚を食べることで体内に取り込まれる場合があるという。
(フロントロウ)

 



 

 

写真家 ウィリアム・ユージン・スミス

W. ユージン・スミス(1918-1978)は、1930年代から50年代、フォト・ジャーナリズム全盛の時代に『ライフ』誌をはじめとする数々のグラフ雑誌を舞台に活躍した伝説のフォトジャーナリスト。
常に被写体の側に自分を置き、ヒューマニズムの視点で撮影された情熱的な写真は、報道写真のあり方を問い直し、多くの人々の心を揺さぶり続けてきた。「
フォト・エッセイ」と呼ばれる、複数の写真と短い解説文によって誌面を構成する表現形式は、スミスの卓越した撮影技術やプリント技術、高い美意識によって芸術として完成され、《カントリー・ドクター》(1948年)、《スペインの村》(1950-1951年)、《慈悲の人シュヴァイツァー》(1954年)、《ピッツバーグ》(1955-1956年)など、多数の記念碑的な傑作が世に送り出された。

取材パートナーであり伴侶でもあったアイリーン・美緒子・スミス氏とともに、1971年から3年にわたり熊本・水俣に移住し、有機水銀による公害の実情を取材した写真集『水俣』は、2020年に製作された映画『MINAMATA(原題)』(監督:アンドリュー・レヴィタス/主演:ジョニー・デップ/アメリカ/2020年、日本では2021年9月公開)の原話として、近年再び注目を集めている。
(富士フィルム)

 

 

ユージン・スミスさんの叫びに胸を打たれました ~ NHK Eテレ『写真は小さな声である ユージン・スミスの水俣』より - 百休庵便り

 

ユージンさんは第二次世界大戦の沖縄戦に従軍取材し、日本軍の砲弾により倒れ、30回以上も手術を繰り返し、体中に破砕弾による傷があり、破片も残っていた。口の傷のせいで固形物をほとんど食べられず、ウイスキーと牛乳を主食にするほど健康状態と精神状態が非常に悪かった。

ユージンは「罪を憎んで人を憎まず」を地で行く人だったんです。社会の不正義に激しい憤りを感じながらも、他者に対しての憎しみを抱かない人でした。沖縄戦では、若いアメリカ兵が苦しんでいるところを撮ったし、日本の民間人が死んでいく様子も撮りました。彼にとって敵や味方という概念は存在しなかった。

千葉県のチッソ五井工場でチッソの従業員複数からユージンはひどい暴行を受けました。その後、私たちはチッソに赴き、ユージンは自分を暴行した人達に会いたいと頼んだんです。

その理由は、単純に彼らが従業員としてどんな気持ちで暴力を振るったのかを知りたい、という自分の生き方、そしてジャーナリズム魂から来るものでした。

ユージンが暴行を受けた様子はテレビにも映り、多くの人が目撃したにもかかわらず、チッソは「誰も何も覚えていません」とシラを切りましたが。
(元妻 アイリーン・スミスさん)